「大丈夫。きっとあなたはどこでもやっていける」
2001年に公開されてから興行収入は300億円を超え、2020年の今も日本の興行収入1位であり続ける、世界中の誰もが知っているジブリの代表作「千と千尋の神隠し」。
宮崎駿監督はこの長編映画を、少女たちへ「どこでもやっていける」というメッセージを込めて作ったらしい。物語の主人公である千尋(10歳)の年頃の子供達に向けられたメッセージ。
私はこの映画が公開された2001年に11歳で、ちょうど千尋と同じくらいの年齢だったのだけど、その頃はあまり「千と千尋の神隠し」が好きでは無かった。
両親が豚になってしまうシーンや、ハクが血だらけになるシーンは11歳の私にとっては本当に怖かったから。
でも、11歳から今の30歳になるまで、19年で何度も「千と千尋の神隠し」を見返した。中学生、高校生、大学生、社会人とライフステージが変わるたびに作品を見返して、その度に新しい学びや癒しがあった。
先日、30歳になってからはじめて「千と千尋の神隠し」を、おそらく通称で20回目くらいには観たので、今の30歳の私の考察を書いてみようと思う。
「千と千尋の神隠し」が現実の世界に教えてくれること
物語を辿りながら、「千と千尋の神隠し」が現実世界(の私に)に教えてくれたことを書き出してみようと思う。
神様の食べ物に手を付けて豚になる欲深いお父さんとお母さん
引越しで新しい家に向かう途中、お父さんの思いつきで想定ルートとは違う道に車を走らせる千尋一家。
ふたりの注意も聞かず、「車が強いから大丈夫だ」という理由で木々を切り倒しながらガンガンと進むお父さん。
ここでバッサバサ折れていく木々が印象的
気味の悪いトンネルを抜けると、そこには人間の都合で山の中を開いて作られたテーマパークがそのままにされていた。
いい匂いがする、と勝手にテーマパークの中に入っては、美味しそうだと思うものを欲望のままにたべる。
台湾の屋台にありそうな食べ物に食らいつきながら、「骨まで柔らかいよ」というお母さんのセリフがとても印象的だ。
そして日は暮れ、両親はいつの間にか食べ物をむさぼる豚になってしまい、鞭で叩かれても我も忘れた状態になってしまう。
鈍臭くて弱虫な、どこにでもいる少女「千尋」の成長は、勇気をくれる
「千と千尋の神隠し」の最大の魅力は、どんくさくて弱虫な、どこにでもいる「少女」である「千尋」がとんでもない状況の中で強く、たくましく成長する姿にあると思う。
両親が豚になってしまい、体が消えかかり、泣いてた千尋は、ハクが教えてくれた言葉を頼りに、なんとか鎌爺のいる場所までたどり着く。いつまでもいじけたりせず、きゅっと涙を拭いて走り出す千尋の姿に、私もがんばらなきゃ、と思える。
千と千尋の神隠し「湯屋」は会社の縮図ではないか
千尋が働くことになった「湯屋」での出来事や、同僚たちが口にする言葉や雰囲気は、現実社会そのもので、どうしても自分の世界とリンクしていまう。
ハク「この世界では働かないものは湯バーバに消されてしまうんだ」
ハク「辞めたいとか、辛い、とか口にしたらだめ。とにかく働きたいと言い続けるんだ。そうすれば湯バーバも手が出せない。」
鎌爺「手出すならしまいまでやれ!」(千尋が一旦持ち上げた石炭を、ここに置きっぱなしにしておけば良いのか?と聞くシーンで)
リン「ハイとか言えないのかい」
(このあと、かけられた言葉には常に「ハイ!」と返していく千尋が印象的。知らなかっただけで、覚えたらちゃんとできるんだよね)
リン「お礼言わないのかよ。鎌爺に世話になったんだろ。」
湯バーバ「ノックもしないのかい!」
自分と違うものを妨げる現代社会
湯屋で働くのはほとんどが、カエルやナメクジらしく、人間は皆無。
人間と初めて働くことになった化け物たちは、千尋を代わる代わるみては「あれって人?」「うわぁ…人臭い」「いやだわあ」とあからさまな態度を見せる。
「クサレ神」の接客シーンは、一致団結した組織の仕事そのもの
千が無事に油屋で働き始めた頃、全身反吐だらけで猛烈な臭いを放った客「クサレ神」が来店する。
息ができなくなるような臭さで、誰もがやりたくない大仕事を千に押し付ける湯バーバ。
しかし目の前に出された課題を、ただひたすら一生懸命にこなす千。
「クサレ神」から逃げることなくちゃんと向かい合って、面倒な客の問題を根本から解決(クサレ神の体にはトゲのようなものが刺さっており、それを見つけた千と見つけたことに気づいた経営者の湯バーバは従業員全員を千を助けるべく動かす。)組織に大きな利益をもたらす。
千の様子をほったらかさずにちゃんと見て、「千が何かみつけた」ことにすぐに気がつき、他の人間に千を助けさせるやり湯バーバも、さすがやり手の経営者というか、人を束ねる者という感じで、現実社会にも応用できそうだ。
ねえ、あなたどこからきたの?お父さんはとお母さんは?
物語は後半に差し掛かるほど、「顔無し」の存在が重要になってくる。
「言葉」のない「顔無し」は、居場所がなく、家族や友達がおらず、とても寂しそう。
金ほしさに誰もかれもがゴマをする中(成金とそれにすがる民衆みたい)、千の態度に戸惑う顔無し。
千「いらない。だめよ。一つでいいの」
千「私のほしいものは、あなたには絶対に出せないよ。ねえ、あなたどこから来たの?お父さんと、お母さんは?いるんでしょう?」
放っておいても成長する孫
湯バーバは孫(坊)を溺愛していて、大事にしすぎるが故に汚い外の世界に出したくない!と、家に坊を閉じ込めている。
人間の欲深さや汚さを知っているので、安全で清潔な家の中にいるのが子供のためには良いのだ、と信じて疑わない。まさに箱入り息子だ。
だけど、ここでも千尋の一言にハッとさせられる。
坊「おんも(外)に行くと病気になるんだぞ。坊と遊ばないとないちゃうぞ」
千「こんなところにいた方が病気になるよ」
人間の世界から来た千尋だって、この訳のわからない世界でもがきながら、強く生きて行っている。そうだ。安全地帯に留まっていると、外の世界が分からなくなって、病気になってしまうんだ。
ゼニーバ「だいじょうぶ。あんたならやり遂げるよ」
無事ゼニーバ(湯バーバの姉)にハクが盗んだ印鑑を返したあと、ゼニーバの家で穏やかな時間を過ごす一同(千尋、ネズミになった坊と湯バーバお付きのカラス、顔なし)。
千は、ハクや両親のことを想い、とてもじゃないけどゆっくりなんてしていられない、と泣き出す。
そこでゼニーバが千尋にかける言葉。
物語の終盤で掛けられるこの言葉が、本当に暖かくて、強くて、ああ、私もまだここで少し頑張ろう。そして新しい世界に踏み出してみよう、と思わせてくれる。
ゼニーバ「だいじょうぶ。あんたなら絶対にやり遂げるよ。ここまで冒険してきたじゃないか。」
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